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2021年夏〜サナンダとスターチャイルドと〝21の鍵〟

3ヶ月ぶりに書いています。
今年の夏は長くて、そして大きなシフトを迎えました。

世界情勢は二度目のコロナ禍での夏。
緊急事態宣言もな何度目になるのでしょうね?不自由な生活にもマスク生活にも慣れました。

6月は私の誕生月でした。
父が旅立った年齢を無事に超えられたという、新たなる年の始まりです。

新しい挑戦として、ボディートークの資格を年内に取得する目標と
ボディケアをもっと充実させたいと思い、新しい店舗へと移動することにしました。
そのための研修が1ヶ月もあるし、ちょっぴり自由が効かなくて面倒になりそうですけど

2022年に理想の店舗をオープンさせたいと思ったので、ここは頑張りどころだなと思い、一歩ずつ進めようと決心しました。身体を使うボディケアのお仕事は体力のあるうちしか出来ないですから、これから重ねていく年齢を考えたら今しか出来ないことをやろうと思いました。

お誕生日を超えたあたりから、いろんなことがゆっくりペースになってゆき
少しだけもどかしい気持ちにはなったのですが、成り行きに任せます。

Surrender

〝委ねる〟ことへの挑戦です。

オーラソーマで世界的に取り組んでいるワーク〝21の鍵〟に参加中で、11番目の鍵「強さ」のあたりから
SNSを見るのが辛くなり、ブログも何もかもネットから離れていくようになりました。
理由は、「情報が飛び込んでくる感じ」であることと、私が画面を見るときの癖で四隅を見て全体を斜めに読んでいくということが目眩を起こすようになったからでした。(こういう画面の見方をするのは後から気がついたのです。変な癖ですね)

10年ぶりのクライアントさんがいらしたり、印象的な映画やドラマをみる機会が増えたり。。。
自分自身の内面と向かい合うようなチャンスが多かったと思います。
これは、〝21の鍵〟に取り組んでいたからだと思います。

この〝21の鍵〟に取り組んでから、
「どうしてこの世に生まれてきたんだろう?」
「私をネガティブにさせることは何なんだろう?」ということを考えるようになりました。
私にはループするパターンがあることには気がついていて、それは「生への執着」すら無くなってしまう感情でした。

昨年の12月に母は姉の住むところへと引っ越して行きました。
もう車椅子が無くては動けない体になっていて、それまでのヘルパーさんがお願いできない状況にもなったので、思い切って動けるうちに行こうということになったようです。

私には、これが最後になるというのは容易に想像できたので、母に「幸せになることを選んでほしい」と笑顔で見送りました。それまで母との間にはわだかまりもあり、悪気はないんだろうけどとても傷ついてきました。
それでも、「幸せでいて欲しい」という気持ちが湧き上がってくるのです。

〝21の鍵〟は23週間のワークです。
一つ一つの扉を開くたびに、自分自身の悲しみや苦しみが思い出されては消えていきました。
そして、
9週目に私はお誕生日を迎えました。
18週目に母に会いにゆき、死についても話すことができました。
21週目に母は旅立ちました。

どのくらいの時だったでしょうか?多分お誕生日を迎える前くらいだったと思います。
あんなに辛く思っていた母との思い出は、不思議なくらいに溶けていって

「愛に溶けていった」と表現するのがぴったりな感じでした。
私と母との最後の時を心配する従兄弟たちと話していても、「この人たちは何を心配しているのだろう?」とピント外れに感じるくらいに「全て」が「許されて」行ったのです。

そして、日帰りで会いに行きました。
福岡ではコロナ禍のため、入院している母には会うことも荷物を届けることも叶いませんでしたが
場所が変われば面会もできて、1時間くらいゆっくりと話すことができました。

身体が自由にならない、うまく話せないもどかしさにイライラしている母に、「もうイライラしなさんな。生きている時間はあとわずかなんだからもっと平和にゆったりと過ごし〜」と母の手をさすると、
母はスーッと落ち着きを取り戻し、穏やかな顔つきで眠りに落ちていきました。
ポケットに忍ばせていたピンクポマンダーとエルモリアをこっそりと施しました。

これが最後となりました。

今でも涙がこぼれ落ちます。

母が旅立つ前日から、私の内側で見えている後継がありました。
旅立ちの準備を始めた母の姿です。
バスタブのような、繭の中のようなところで光に満たされて目を瞑っている母。
ピンクやコーラル、イエローの光が母を包んでいました。
そして、旅立った後も、、、。

初七日までに、母の場合は二日ほど掛けて、「人生のリプレイ」をしていました。
生まれてから死ぬまでを映画のようにみるのです。そうして思い出すことやいろんな感情を懐かしく体験して、最後を締め括るようです。

その後、母は真っ暗な待合室のようなところでボーッと過ごしていました。
「四十九日までは会いたい人に会いにいってもいい」らしいのですが、母はじっと座ったままでした。

しばらくして、「好きな姿になれて嬉しい!」という母の声に目が覚めました。

母は元気な頃の、歳で言うなら今の私とほぼ同じくらいの時の姿になっていて
父と一緒にいるようです。

ちょっとずるいな〜と思うのですが、白髪になり年老いた姿では誰にも会いたがらなかったので、今はとても喜んでいるのが感じられてホッとしました。



私の父は、交通事故で勝手に旅立って行きました。
その衝撃は今でも深く残っているほどです。

もう27年も過ぎたのですが、今でも父のことを思って下さる同僚や後輩の方もいてくださることは、父の人柄だと思います。ですから、母が年老いて亡くなっても父の会社関係で連絡する先も多いし、しばらくは毎日のようにどうして亡くなったのかを説明しなくてはならない日々を過ごしていました。本当に尊敬する父と母です!

父の死の衝撃はなかなか癒えず、それをカバーするかのように、母は生きていたんじゃないのかな?と考えるようになりました。
私は次女ですが、次女の私が父の年齢を超えた後に母が旅立つなんて、残される姉と妹である私のショックを拭い去って行こうと思っていたのかもしれません。今となってはわかりませんが、そんな気がするのです。


私はこの世に生まれる時に、「この人を幸せにしようと思う」と言って人生を選んだことを思い出しました。
そんな夢を見たのです。
その時に、持ってきたのはとても健康な身体です。
母の病気を受け継いで生まれてきたので幼少期は病弱でした。精神的にも弱くて。
私を出産後の母はとても元気になったと自分で言ってたので、そうなのでしょう。
でも、私はその病気を全部引き受けても大丈夫なくらいの体力で生まれてきたので、なんだかんだと言っても病院にかかることは小児科以来、ストレス性の胃腸炎くらいで(あ、胃に穴は開けましたが自己治癒力で治ってました笑)ここ数ヶ月やたらと病院のおせわになりましたが、検査結果は「特に問題ないし!」


病院嫌いの私に、母の道きで検診を受けざるを得ない状況になったのかなと思っています。
なんでMRIまで受けることになったんだろう???と不思議な気持ちです(笑)


母と娘の問題を解決しようと何度も母と話し合ったのに、分かり合えない苦しさもありました。
それでも諦めずにトライしました。何度も何度もその度に傷ついてきました。
もうこのまま、分かり合えないんだろうなと思っていました。


でも、なんの手段を用いたわけでもなく、
わだかまりは消えてゆきました。明らかに光の中に溶けてゆきました。

最後に、
うまく話せない中、私も何度も「え?なんて?」と聞き返す状況で、はっきりと母は言いました。
「いい娘」

純粋に嬉しかったです。そしてどれほど母が私のことを好きだったのかも、よくわかりました。
扱いにくい繊細な子供で、こだわりも強いし、どうやって仲良くしたらいいのかわからない戸惑いもあったようですが、母は私のことが大好きだったのです。私はそれに気がついていませんでした。
どちらかというと、、、必要とされていないと感じていました。
正直に心のうちを話し合える関係であったこと、きっとたくさん傷つけたこと、それでも「許し合える」と言うのが家族という血の繋がりなのかなと思いました。


私は血の繋がりがない人であっても、とても近しく感じてしまって。幼少期に父に「家族は特別なんだぞ!」と言われてもピンときませんでした。
血のつながりを特別に感じたことはなかったのです。


でも、父と母の愛を今は素直に感じています。
産んでくれてありがとう!


今年の夏は、人生の中でもとても深くて大きなシフトの起こった夏でした。

〝21の鍵〟を受講することになったのも全部〜予定通りなんでしょうね。

人生に感謝を!

もし、家族のことで悩んでいる人に出会うことがあれば
私は「自分としっかりと向き合ってね」と伝えるでしょう!
自分と向き合うことで、細胞を通して癒されていくことがあることを知っているからです。
期待していた通りでないかもしれませんが、私もこんな風に思うとは思っていなかったので。
どんなことが自分の人生のシナリオ通りなのかはわかりません。


でも全て、予定通り!想定内だと言うことですね。

Love Your Self