『The habits of happiness』マシュー・リカルド
では 幸福または満たされた状態について話しましょう。
まず最初に フランスの知識人がなんと言おうと 朝から「今日も一日苦しむだろうか」と 考えながら起きる人は誰もいません (笑) つまり — 意識しようがしまいが、直接であれ間接であれ すぐのことでも将来のことでも 我々がすること 望むこと 夢見ること そういったこと全てが 心の奥底で幸せを求めることにつながっているのです。
首をくくってしまう人は 苦しみを終わらせる方法を探した末に、 他の方法を見出せなかったのだと パスカルも言っています。
でも、東洋や西洋の書物を調べれば 幸せの定義は驚くほど多彩でしょう。
こう言う人がいます ”過去の記憶を信じて 将来を想像し 現在は念頭にない”
こう言う人もいます ”幸せとは今という瞬間 今という瞬間の新鮮さの度合いである”
そしてこれは フランスの哲学者 アンリ ベルクソンにこう言わせました。
「すべての偉大な人文科学の思想家は幸せを曖昧なまま残した 彼らが自分達の言葉で幸せを定義できるように」
人生において幸せにそれほど関心がないなら かまわないでしょう。
しかし幸せが人生のあらゆる瞬間の 質を定めるものだとしたら、 私たちは それが何であるかを知り、 はっきりした考えを持った方が良いでしょう。
そしておそらく 私たちが幸せについてよく知らないことが理由となって、 しばしば 幸せを求めながら それに背を向けてしまうのでしょう 。
苦しみから逃れたいのに 苦しみに向って走っているかのようです。
それはある種の勘違いが原因かもしれません。
喜びを幸せと思い込む事はよくあります。
この 2つの特徴をよく見てみると、 喜びは 時間 目的 場所に左右されます。
その本質は変わりうるものです 。
チョコレートケーキの 最初の一切れはおいしいです 。二切れ目はそれほどでもなく 三切れ目には嫌気がさします (笑) 。
それが物事の本質です。 飽きが来ます。
私は昔バッハが大好きで ギターで弾いたりしました。 5回聴いても飽きません。 もし24時間 休みなしで聴くことになれば飽きるかもしれません。
寒いとき 火のそばに近づくのは 気持ちがいいです。 そして しばらくすると 少し後ろに下がります。 それから すごく熱く感じます。
喜びは経験とともに 消費されるかのようです。
そして それは あなたから 発せられるものではありません。
あなたが強い喜びを感じることで まわりの人が大いに苦しむこともありえます。
では 幸福とはいったいなんでしょう。
幸福というと あまりにも漠然とした言葉なので 満ち足りた状態と言いましょう。 仏教徒の見解から 最もふさわしい定義は 満ち足りた状態とは、 ただ楽しいという感覚ではないということです 。
それは心の奥底を静かに満たすものです。
人生におけるあらゆる心の働きや喜びや悲しみにも しみ渡って その根底に横たわっています。 皆さんは驚くかもしれません。
悲しみのさなかでも満ち足りていることは、ある意味可能です 。
なぜなら私たちは別のレベルの話をしているからです
岸辺に寄せる波をごらんなさい。
波の谷間にいれば、海底に当たります 堅い岩にあたります。 波の上にのっているときは意気揚揚としています。 海面は上へ下へと揺れ動きます。
外洋をごらんなさい 。そこには鏡のように美しく穏やかな海があるかもしれません。 嵐の海かもしれません。
しかし 海の深さはそこにあり 変わらないのです 。
どういうことでしょう? それは つかの間の感情や感覚でなく 、そのものの状態です 。
喜びもまた 幸福の源となりえますが 誰かの苦しみを喜ぶというような邪悪な喜びもあります。
ではどのように 幸せを探しましょうか?
たいていは 外界から探し出そうとします。
‘幸せ’になるために すべての状況 すべての条件を満たせば幸せになれると考えます。
すべてを得ることで 幸せになる。 こんな考え方の幸福には崩壊が待ち構えています。 「すべてを持つこと」 何かが欠ければ それは崩れます。
何かがうまく行かないと 、いつも外界を修正しようとします。
しかし 私たちが外に及ぼす力は限られたもの 一時のもの 錯覚かもしれません。
では内部の状況を見てください。
それらはより強くありませんか?
外界から 幸福や苦しみを捉えるのは心ではないですか? 心の影響が強くないですか? 小さなパラダイスのようなところに住んでいても。 まったく不幸せなこともあるのをご存知でしょう
ダライ ラマがポルトガルに行ったとき 、そこでは 至る所で建設工事が行われていました。 ある晩 彼は言いました「立派な建物を建てるよりも 心の中に何か築き上げるのが良いのではありませんか」?
そしてこう言いました「もしあなたが 素晴らしくモダンで 居心地の良い ハイテクのマンションの100 階に住んでいても 内面でひどく不幸だったら 飛び降りるための窓を探してしまうでしょう」
では反対に 非常に厳しい状況下でも落ち着き 芯の強さ 自由 信頼を失わない人が沢山います 。
では 内面の条件が強ければどうか もちろん 外部状況は 影響するでしょう。
そして健康に長生きすることや 情報が得られ、 教育が受けられ 旅行が出来 自由でいられることは 素晴らしいことです。 大変望ましいことです。
しかしこれだけでは十分ではありません。 補助的な条件に過ぎないのですすべてに解釈を与えるのは心の中に存在する経験です。
内面の幸せの条件をどうはぐくむかと自問していくと 、幸せを妨げるものが自らの内面に見出されたりもします。
これを解るにはいくらかの経験が必要です
ある種の心の状態があることに気付かなければなりません。
それはこの幸せ、この満ち足りた状態につながる心の状態で、 ギリシア人がユーダイモニアと呼んだものです 。
こんな満ち足りた状態の妨げとなるものもあります。
自らの経験の中から探しても、 怒りや憎悪 嫉妬 ごう慢 しつこいほどの欲望 執着 — そんな感情にとらわれた後は 、あまりよい状態とはいえません。
そのうえ それらは他人の幸せにも有害です 。
これらのものが心に侵入すればするほど 連鎖反応のように ますます惨めになり苦悩を感じます。
逆に 誰もが知っていることですが 献身的で寛大な行為の奥底では 遠くからであっても、他の誰に知られることがなくても 子どもの生命を救い誰かを幸せにすることができます。
我々は 認識されることも 感謝されることも必要としません 。
ただそうする事が 心の深みにおいて満ち足りたものを与えます。
それは常にそうありたいと思う「姿」です
では 生き方を変えて心の在りようを変容させることが可能でしょうか?
生まれつき心が持っていた 、否定的な気持ちや破壊的な感情を? 我々のムードや 特徴そして 感情を変化させることは可能でしょうか?
そのためには こう尋ねなければなりません 。
心の性質とは何でしょう?
経験的な観点から見れば 意識の主な性質というものは 単に事実を認識し、気付くことなのです。
意識は すべてのイメージを映し出す鏡のようです。
醜い顔も美しい顔も 鏡は気にしません。
鏡は汚されず イメージによって変質する事もありません。
同様に すべての思考の背後には ありのままの意識 純粋な認識があります。
そういう性質なのです。
意識は憎悪や嫉妬によって損なわれるようなことはありません。
全体が染料で染められても布は布であるように、 常に意識はそこにあります。
我々は いつも怒っていたり、 嫉妬深かったり 気前がよかったりするわけではありません
意識という布地は 純粋に認識をするというその性質において 石とは違っていて、 だから変化の可能性があります。
すべての感情は過ぎ去っていくからです。
それが 心の訓練の基盤です 心の訓練は 2つの対立する精神要因が 同時に起こり得ないという考えに基づきます。
愛から憎しみへ行くことはできます。
でも 同じ時間に 同じもの 同じ人に対し 害悪を願いながら善を願うことはできません。
あなたは 握手しながら 殴ることはできません。 我々の内面が満ち足りようとするのを妨げる感情に対して 自然の特効薬があるということです 。
そこに進むべき道があります。
嫉妬に対しては喜び 貧欲な執着に対しては 内心の自由 憎悪に対しては 慈愛あふれる親切 もちろん それぞれの感情ごとに特定の解毒剤が必要です
もう一つの方法は 全ての感情の特質を分析することで、 対抗手段を見出そうとするものです。
通常 我々が誰かに対し 不快や 憎しみ 動揺を感じたり 何かに執着すると 我々の心は その対象のことを繰り返し考えます。
その対象に思いを寄せるたびに 執着心や不快感が増します。
その過程は際限なく繰り返されていきます。
今 我々が見るべきなのは 外を見る代わりに 内観するということです。
怒りそのものを注視してください 。
それは非常に恐ろしげに沸き立つモンスーンか雷雲のように見えます。
その雲に座ることすらできそうに見えますが、近づけばただの霧にすぎません。
同様に あなたが怒りという感情を直視すると それは 朝日のあたった霜のように消えます。 何度も繰り返して怒りの感情を直視して解消しているうちに 怒りの繰り返しは 解消するたびにだんだん小さくなります。そしてついには 、たとえ怒りが生じても 心をかすめるのみで 空を渡る鳥のように 痕跡も残さなくなります 。
これが 心の訓練の基本です
時間はかかります 。
心の欠点や 性癖を積み重ねるのに時間がかかったように、 それらを解きほぐすのにも時間がかかります。
しかしそれしか方法はありません 。
心の変容こそが瞑想の意味することろです。
新しい在り方や ものの受け止め方を習熟することです そのほうがより現実であり 相互に支えあい 流れのように連続的な変化であるもの それが我々の存在であり意識であるのです。
それでは 認知科学との接点について、 この話をする必要があります。 短い限られた時間で話さなければなりません 。
脳の可塑性に関して 以前は脳の機能は不変のものと思われていました。
20年ほど前までは 、すべての神経の接続の総数は 成人した後には ほとんど変化しなくなるものと考えられていました。
最近では それは大きく変化しうることが解かっています。
10,000時間バイオリンの特訓をしたバイオリン奏者 の話を聞きましたが、 指の動きを制御する脳の部分は大いに変化して、 シナプス接続が強化されます。
人間の品位において 愛あふれる慈悲や 忍耐強さ 開かれた心によっても同じことができるでしょうか?
これは それらの偉大な瞑想家が行っていることです。
ウィスコンシンのマディソンまたはバークレーの研究室に来た達人の中には 2万から4万時間も瞑想をした人がいます。
彼らは3年間ほどの隠遁生活を送り その間毎日12時間、その後も毎日 3-4 時間瞑想します。
彼らは 心の訓練の真のオリンピック勝者です(笑) 瞑想の達人の一人 — すばらしいですね ここには256本の電極があります (笑)
何が明らかになったでしょうか。
さきほどの話と同じです 研究に関してはまだお話できないのですが 、いずれネイチャーに掲載されることを期待します。
この研究では無条件の慈悲について調べました。
何年も何年もかけて 心の中に慈しみをあふれるさせることができるようになった 瞑想家に実験を手伝ってもらいました。
そこに至る訓練の途上では対象として 苦しんでいる人々のこと 愛する人々のことを考えますが やがて慈しみがあふれて全てを覆い尽くすことができるのです。
初期的な結果をここに示します。
これはすでに公開されているのでお話できます。
釣鐘型の曲線は比較対象の150人を示します 。
ここでは左右前頭葉の違いを測っています 要点だけ言えば 前頭葉前部皮質の右側がより活動的な人は 元気がなく 引っ込み思案で 良い情動が多くありません。
反対に左側は: 利他的 幸福 表現する 好奇心が強いなどの傾向があります。
これは基本的な傾向です。
滑稽な映画を見れば 左側に寄ります 。
満足していれば もっと左に寄ります。
鬱病の発作におそわれれば 右側に行きます 慈悲について瞑想した瞑想家の -0.45 という値は標準偏差の 4 倍で 正規分布から全く外れています
科学的な結果の全てを述べる時間はありません。
またの機会があることを期待しましょう。 MRIの中から3時間半ぶりに出てきたところ それはまるで宇宙船から出てくるみたいでした。 例えばバークレーのポールエクマンの研究室など他の研究室でも 同じようなことが確かめられました。
一部の瞑想家は それまで考えられていた以上に、 彼らの感情的な反応を制御できます。
たとえば驚かせる実験を行いました。
椅子に座らせた人に 生理機能を測定するあらゆる機器を取り付けます。
それから爆弾のようなものを炸裂させます。 これは本能的な応答なので この20 年の間 驚かなかった人はいませんでした。 瞑想家の中には 驚かないように努力することなく 完全に心を開いた状態になることで 爆発音を流れ星のように小さな出来事ととらえて まったく動じない人がいます。
肝心なことは この実験はサーカスのように 特別なことができる人を見せようというものではなく、 精神鍛錬は重要だと言いたいのです。
これはただの贅沢ではなく、 精神のビタミン栄養剤でもありません。
これは我々の人生のすべての瞬間の品質を決定するものです。
皆さん 教育には すすんで 15 年を費やし ジョギングやフィットネスなど 美貌を維持するためにあらゆる事を行います。
しかし 心の動かし方という最も重要なことには 驚くほど無関心で時間をかけませんそれは 我々の経験の質を決定する根本的なことです。
我々の慈悲を行動にうつすべきです。
我々はそれをいろいろな場所でやろうとしています。
この一つの例だけでも 骨折りの甲斐があります 。
この骨結核の女性は テントの中に一人娘と取り残され死ぬところでした。 一年後の彼女です。 我々がチベットで開いている学校や病院です
では私の言葉以上に幸福について語ってくれる 美しい表情を残して行きたいと思います 。そして チベットの跳ぶ修道僧 (笑) 飛ぶ修道僧 どうもありがとう